(『サンパウロ新聞』 1995年12月21日付、各見出しは当時のサンパウロ新聞編集長・(故)中曽根武彦氏)
〜 第1回「日本杯」レースD 〜
<特集>「日本杯」レースで日伯友好
州知事夫妻も観戦に
名騎手 河内さんを追う
去る11月26日、日本中央競馬会(JRA)から河内洋騎手(40)を招待してJRA、サンパウロ新聞社、サンパウロ・ジョッキークラブが共催しサンパウロ・ジョッキークラブで第1回「日本杯」レース(3歳以上牝馬、芝コース1600b)が行われ、1万人の観衆が来場し、国内トップクラスの牝馬12頭が覇を競った。優勝はE・パシェコ騎手騎乗のイネイブルトゥルース号(アラス・ブリッツ・フェルジ所有)で、1着賞金12,800レアルを獲得した。河内騎手は同レースでは馬が本調子を欠いたため入着は果たせなかったものの、サンパウロでの8回にわたるレース参加では1着2回、2着2回、4着1回、5着1回と日本の一流ジョッキーとしての腕を披露し、当地の競馬ファンを存分に魅了した。当日はマリオ・コーバス州知事夫妻、田中克之総領事、ジョッキークラブのジョゼ・ボニファシオ・コウチニョ理事長夫妻、和井武一援協会長をはじめ来賓多数が出席。作家の畑正憲氏、JRA筧邦男理事夫妻ら日本からの賓客とともに、本紙主催のレセプションに出席、レース観戦した。
“昨年までに1475勝”
11月21日来聖した河内洋騎手とJRA札幌競馬場庶務課長の野中亮一氏、取材のため同行のフリーライター加賀谷修氏ら一行は、午前中ジョッキークラブを下見したあと、午後サンパウロ新聞社を訪れた。
― 河内騎手経歴 ―
河内騎手は大阪府出身。祖父、父が競馬の騎手や調教師をしており、幼い頃から厩舎で生活をしていた。その影響で自然と騎手の道を選ぶようになる。
1974年3月、19歳の時に平地騎手免許を取得し、滋賀県・JRA栗東トレーニングセンターの武田作十郎厩舎の門をくぐる。デビューは同年3月3日愛知県・中京競馬場の第2レースでいきなり初勝利を上げ、この時から後の名騎手としての片鱗を見せる。その後も勝ち数を増やし、85年4月21日フリーに。88年6月4日大阪府・阪神競馬場の第6レースで1000勝を達成した。
94年度終了時点での通算騎乗回数は10,457回、うち勝利数は1,475勝でJRAの現役騎手では2位、歴代順位でも4位の名ジョッキの一人(通算勝率は1割4分1厘)。
“日本では野球に次ぐ人気”
22日は一行でリオの一日を楽しんだ。
23日朝7時からは馬の調教(トレーニング)を行った。ちなみに野中氏によると、日本での調教は気温によって変わるが朝4時または6時から行うという。この日は2頭に騎乗して稽古をつけたほか、79年に京都競馬場で行われた海外騎手招待レースに出場経験があるアルベンジア・バローゾ騎手と会い、英語を交え身ぶり手ぶりで交歓。
午後からはJRA筧邦男理事夫妻と河内騎手、野中課長が市内のレストランで記者会見に臨み、地元紙9社の記者からの質問に応じた。
河内騎手に対しては海外での騎乗経験などに質問が集中したほか、息子さんも騎手にしたいかとの質問には「本人の気持ち次第」と答え、レースへの意気込みを「初めての競馬場、全力を尽くすしかない」と語った。また筧理事、野中課長には競馬運営面に関心が集まった。日本のスポーツの中での人気を「野球に次ぐ」と説明した上で、若いファンをどう引きつけているかとの質問には「以前ファン層が高年齢化していると調査結果が出たことから、施設整備や人気俳優を起用したテレビCMの放映、ファッションショーなどのイベント開催などで女性をターゲットにした企業努力を行った」と説明した。
“本紙の歓迎宴”
24日筧理事夫妻、河内騎手、野中課長、取材の加賀谷氏らはカンピーナス市近郊の牧場を見学した。牧場に向かう車中は前日のレースで早くも1勝を上げたとあって、一行はリラックスムード。河内騎手が街でレストランのボーイから「あなた、日本のジョッキーでしょ。いつレースに乗るんですか?」と声を掛けられたとの話が上がり、筧理事が「もう有名人じゃないか、これじゃ悪いことはできないな」と切り返すと車内は笑いに包まれた。
また夜にはサンパウロ新聞社社長邸で一行の歓迎レセプションが開かれた。伊波興裕下議夫妻、下本八郎州議、ジョッキークラブのアルツール・テイシェイラ・ネット副理事長夫妻、中村祐首席領事、和井武一援協会長をはじめ来賓多数が出席し一行と歓談。また作家の畑正憲さんにはサインをせがむ人が群がり、畑さんは一人一人に似顔絵を数秒で書き上げて渡すなど大サービスだった。
“日本の現状”
日本でもかつて競馬といえばギャンブルで「一家離散」などのマイナスイメージが強かった。そんな中、1972年東京・大井競馬場(地方競馬)に現れた1頭の馬が、6戦6勝の戦績を引っさげて翌年中央競馬に移籍、連戦連勝を重ねた。馬名はハイセイコー号。たちまち人気を呼び、同馬を一目見ようと競馬場の馬場にまで人があふれ、少年雑誌の表紙を飾り、同馬が大レースの出走を回避した時はNHKのトップニュースになるほどの国民的ブームを巻き起こした。
これをきっかけに競馬に関心を持つ層が増え、JRAも毎年イメージアップの広報活動を行った結果、過去5年間では競馬場の入場人員の10%以上が女性であるなど幅広い性別、年齢層のファンが来場するようになった。楽しみ方も従来の「馬券中心派」から、お気に入りの馬の馬券を購入して換金せず記念に取っておくなどの「馬、騎手の応援派」や、「血統論派」「家族でピクニック派」「デートコース派」などさまざま。ある年齢層までは今でも競馬に抵抗を感じる向きはもちろんいるものの、むしろ手軽なレジャーの一つとして考える層もかなり定着したようだ。
― JRA概要 ―
日本中央競馬会(JRA)は1954年、日本中央競馬会法に基づく特殊法人として設立された。資本金は49億2,412万9千円(日本政府全額出資)で、農林水産大臣の監督下に置かれている。
94年現在、中央競馬が開催されている競馬場は全国10か所、馬券の場外発売所は24か所。同年1年間での競馬開催日数は288日間、競走回数は3,429回。1年間の入場人員はおよそ1,353万人を数え、56年以降年々増加傾向をたどる売得金額は3兆8千億円に達した。なお売り上げは75%が配当金としてファンに払い戻され、10%が国庫に入り、残る15%が賞金や競馬運営費として運用される。
競馬場への過去最高入場者数は日本ダービーの19万6,517人で、1レースあたり1着馬の最高賞金額は1億3千万円。
(参考・『1995中央競馬のあらまし』日本中央競馬会発行)
“見事な成績残す”
今回、河内騎手のサンパウロ遠征は1着2回、2着2回、4着1回、5着1回とすばらしい成績で、『オ・エスタード・デ・サンパウロ』紙でも活躍が賞賛された。また競馬雑誌『トゥルフィ』で河内騎手は「また近いうちに休暇でも利用してサンパウロに来たい」と語り、日伯親善の役目を果たすと同時に、当地を気に入った様子だった。
なお今回のサンパウロ遠征の模様は日本の競馬雑誌にも紹介された。加賀谷氏が『Gallop』『馬劇場』に、畑氏が『優駿』にそれぞれ執筆した。
「日本杯」レースで河内騎手が騎乗したボールドグローリー号の馬主・鈴木定夫さん(60)はジアデマ市で帽子の製造・販売を営んでいる。
馬主になったのは20年前、中神輝一郎騎手がサンパウロ・ジョッキークラブの一員になった時に、励ましの意味から友人と共同で馬を購入し乗ってもらおうと考えたことがきっかけ。その後、馬の魅力に取りつかれ、現在はパラナ州に14頭を所有してクリチーバの競馬場などで走らせている。
鈴木さんは、一日中馬を見ていても飽きないといい、「レースで自分の馬が勝ってくれた時などは可愛くて仕方がない」と表情をほころばす。と同時に、競馬というとどうしても一般的にギャンブルとしての側面だけしか見られず、馬の持つ魅力が理解されないことを残念がる。
7年前に祖国への訪問を果たした時は、東京競馬場で日本ダービーを観戦、「人がいっぱいでびっくりした」という。
「今年も2歳馬を4頭買いました」と鈴木さんは、自分の子供のような愛馬たちが気がかりな毎日だ。
小生は昔、こんなものを雑誌と日本語新聞に載せちゃいました | ||||
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▽ 第4回「日本杯」レース |
1997.5.20 | 1995.11.22 | 1997.6.27 | 1998.5.30 | 1998.8.13 |
1998.1.21 | .11.24 | .8.13 | .6. 2 | .8.18 |
.3.18 | .11.25 | .8.15 | ||
.8. 5 | .11.28 | .8.16 | ||
.12.21 | .8.19 |