(『サンパウロ新聞』 1995年11月28日付)
〜 第1回「日本杯」レースC 〜
「日本杯」レース結果
イネイブルトゥルースが優勝、河内騎手ボールドグローリーは着外に
河内騎手は3日間で計8レースに騎乗、優勝2回
26日、日本中央競馬会(JRA)の河内洋騎手を招待してJRA、サンパウロ新聞社、サンパウロ・ジョッキークラブ共催により同ジョッキークラブで「日本杯」レース(芝1600b、3歳以上牝馬)が行われた。観衆は1万人。優勝したのはE・パシェコ騎手が騎乗するイネイブルトゥールース号(アラス・ブリッツ・フェルジ所有)で、1着賞金12,800レアルを手にした。河内騎手騎乗のボールドグローリー号(鈴木定夫氏所有)は直線で脚が止まり後方に沈んだ。なお河内騎手はサンパウロでの8回にわたるレース出場で1着2回、2着2回、4着1回、5着1回の好成績を残し、27日早朝未明帰国の途に就いた。
本番の「日本杯」レースは国内トップクラスの牝馬11頭が出走。その中で、ボールドグローリー号は休養9か月明け、馬体も回復途上という不安材料があったにもかかわらず、河内騎手騎乗ということがあってか単勝倍率は15.2倍の5番人気。ペドロ・ニッケル・フィーリョ調教師も「騎乗ぶりがとても気に入ったし、いつもの調子で乗ってくれれば」と言い、馬主の鈴木さんも「4、5番手を追走して、直線に入ったら最後まで追ってください」と指示。だが、いかに名手といえども馬の状態がいまひとつではどうにもならず、4コーナー手前で馬が掛かってしまい、直線に入ると馬も余力を失い後続馬に次々と抜かれてしまった。
しかし木、土、日曜日の3日間の成績を見れば日本のトップジョッキーとして十二分な成績を残している。
河内騎手は、サンパウロ新聞社を訪れた際に「もちろん勝つことが目標ではあるが、欧米や日本とは馬の性質から馬場の状態まで違い、とにかく今までの経験を生かしてブラジルのファンの皆さんに満足いただけるようなプレーをしたいだけ」と語っていた。今回、招待を受けた身にもかかわらず、決して馬に恵まれたわけではなかった。その中で、言葉どおり味のあるプレーを披露し、サンパウロの競馬ファンを魅了し続け、競馬を通じた日伯交流の一ページを飾った。なお海外との交流に積極的な河内騎手は、過去フランスに3回、アメリカに2回、マレーシアに1回遠征している。
24日、河内騎手と同行のJRA筧邦男理事夫妻、札幌競馬場の野中亮一庶務課長らがサンパウロ郊外の牧場を見学した。
一行は早くも前日、河内騎手が1勝を上げた後とあって終日リラックスした雰囲気。最初に訪れたジョッキークラブ経営の牧場では、一行が砂ぼこり予防の目隠しをした馬を見て「日本にはない、珍しい」と口にした。続いて種牡馬5頭が連れ出され、筧理事は牧場関係者に血統についての熱心な質問をした。また河内騎手は馬の口に手を入れて「ハミがまっすぐなので、珍しくて見ていた」と語るなど、牧場ならではのゆったりとした時間を楽しんだ。
また26日の「日本杯」レース前にはジョッキークラブ貴賓室で歓迎レセプションが開かれ、マリオ・コーバス州知事夫妻、伊波興裕下議夫妻、下本八郎州議、ジョッキークラブのアルツール・テイシェイラ・ネット理事長夫妻、田中克之サンパウロ総領事、和井武一援協会長をはじめ多数の来賓が出席して、日本からの一行を歓迎した。
(『サンパウロ新聞』 1995年11月28日付 コラム「モザイク」)
河内騎手は木曜日の初日レースに騎乗してみて「日本ではスタート前、馬をリラックスさせるけど、こちらでは逆に馬に気合いを入れている」のに驚いたらしい。「周りのジョッキーもゲートが開いたら“ヤー!”と大声で馬に気合いを付けるのでびっくりした」という。「国民性じゃないかな」と、日本とブラジルの違いを実感したようだ。
小生は昔、こんなものを雑誌と日本語新聞に載せちゃいました | ||||
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1997.5.20 | 1995.11.22 | 1997.6.27 | 1998.5.30 | 1998.8.13 |
1998.1.21 | .11.24 | .8.13 | .6. 2 | .8.18 |
.3.18 | .11.25 | .8.15 | ||
.8. 5 | .11.28 | .8.16 | ||
.12.21 | .8.19 |