1995-1999 ブラジル サンパウロで、競馬。【HOMEへ】

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『アルゼンチンで、競馬。 ’97』 C

 車中からパレルモ競馬場を発見した翌々日。
 どうしても気になって、とにかく実際に競馬場を訪れてみることにした。
 しかし行き方がわからず、とにかく当地に来てから買った地図をもとに歩いた歩いた。

 ようやくパレルモ競馬場に着いてみたところ、さすが競馬の盛んなアルゼンチンらしく、4、5階建ての建物はさすがに伝統を感じさせ雰囲気にたたずまいがある。

 残念なことに、この日はレースの開催日ではなかった。

 しかし正門が開いていて、ノーチェックで中に入れたのでラッキー、と思っていたら、本馬場の手前に警備員が立っていて小生をニラんでいる。
 言葉のわからぬ異国の競馬場で面倒なことになるといけないと思い、とりあえず歩み寄って
「ここは競馬場であるか」
とわかりきっていることを尋ねたら、警備員はニコやかに
「そうだ」
と答える。
 小生がさらに
「私は日本人である。私は旅行者である。私は競馬に大変関心を持っている」
と話すと、警備員はニコやかにうなずいてくれた。
 その表情にやや安心し、
「私は競馬場に入って、コースを写真に収めたいと考えるところのものである」
としどろもどろに伝えたところ、警備員のにこやかな表情からは
「だめ」
と突き放した一言が返ってきた。
 小生は笑顔と単刀直入な拒否の返事とのギャップにやや狼狽しつつ(あれこれ言われてもどうせ理解できないのだが)、おとなしく引き下がることにした。
 面倒なことにならなくて良かった。

 そのあと門の外から柵越えに競馬場敷地内の写真を撮っていると、通行人のおばさんからニラまれた。

 さらに競馬場の塀に沿って歩いていったら、直線1000メートルコースのスタート地点が見えたので、カメラを構えたら、座っていた警備員が身を乗り出して小生をニラむので、早々に退散することにした。
 面倒なことにならなくて良かった。

 この直線コースのスタート地点が国鉄のリサンドロ・デ・ラ・トレー駅のすぐ近くだったので、ここから列車に乗り、車窓を眺め「中央フリーウェイ」の1フレーズを再び口ずさみながらレティーロに戻った。

 ……

 さて、ブエノスアイレスを去る前日。

 「サン・イシドロまで競馬しに行ったんですよ」
ととある日系2世に話したら、
「ああ、ラ・プラタにも競馬場があるよ」
と彼は言った。
 どうやって行くのかと尋ねたら、市内の国鉄コンスティトゥシオン駅から列車で1時間半くらいの所だそうだ。
 「ラ・プラタの駅からすぐの所にあって、よくその前を通ったよ。中に入ったことはないけど」
という。

 市内から1時間半以内の所に3つも競馬場があるなんて…。

 東京に住んでいた頃、大井、浦和、川崎、船橋の4場を渡り歩いて幸せに浸っていた時のことを思い出しながら、当地の競馬ファンが、つくづくうらやましく思えた。

 ……

 だいたいが、アルゼンチンなんて、サッカーのプレーは野蛮だし、閉鎖的な家族主義で、白人ばっかで排他的で、気取ってばかりいやがって、とマイナスイメージしか持っていなかった。

 しかし、訪れてみて初めてわかったのだが、競馬好きにとってブエノスアイレスはまさに天国のような町。
 日本とアルゼンチンは友好を深めなければいけない、ということに気がついてしまった。
 なにせ、例年11月には東京・府中のJRA東京競馬場で「アルゼンチン共和国杯」レースが開催されているのだし、特に本年は「日本アルゼンチン修好100周年記念」と“前書き”が付くおめでたい年なのである。
 だから、この記念すべき年にあたって、両国の友好親善のためアルゼンチン市民に競馬とは無関係にお願いしたいのだが、頼むから路上で男の友人知人同士が抱き合って頬にキスする習慣だけはやめて欲しいと思うのである。

 ともかく、今回は下見と割り切って、またこの町に必ず来るぞと誓いつつ、後ろ髪を引かれる思いでクリスマス前のエセイサ国際空港をエッサホイサと飛び立った小生であった。(おわり)

(1998年3月 記)


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